モルヌピラビルによる猫のFIP治療の安全性と問題点について
2022.3.20 -[ブログ]
人間の新型コロナの内服薬として承認された「モルヌピラビル」が猫のFIP治療に使えそうだ、という情報が聞かれるようになってしばらく経ちます。
当院でもモルヌピラビルには人間の方で承認される前からずっと注目しており、少し前に入手しました。
ハッキリ言って安いです。
もし、これをFIP患者に処方するなら、ザっと計算してみたところ、
原価としてはGS-441524試薬の1/10以下の価格です。(!!)
MUTIANと比べたらさらに・・・ですね。
しかし、安いからと言ってホイホイ飛びつくのには、どうやら「待った」が必要そうです。
今日はそのお話し。
まず、なぜ承認されたばかりの新薬モルヌピラビルをこんなにも安く手に入れることができるのかと言うと、
モルヌピラビルの特許を持つ製薬会社メルクが、新型コロナのパンデミックに対して、低・中所得国で暮らす人々にも広く治療を受ける機会を与えるという人道的な理由から、登場と同時に既にジェネリック(後発品)の製造販売を許可しているからです。
一般的には新薬(先発品)は特許が切れるまで独占販売状態であり、その特許期間が終了したのちにジェネリック医薬品メーカーが安価で製造・販売に参入してくるものです。
既にあるお薬を真似るだけのジェネリックの製造とは異なり、新薬の研究・開発には莫大な時間と費用がかかっていますから、通常はある一定期間の独占販売権がないと新薬メーカーとしては割に合いません。
(以下画像は政府広報オンラインより引用)
今回のメルクの対応は、言わばその独占販売期間を放棄するもので、新型コロナのパンデミックという全世界的な危機に対しての社会貢献としてかなり太っ腹の特例です。
最初はインドのジェネリックメーカー数社と契約したと報じられていましたが、その後もライセンス契約は増えているようです。
☞米製薬大手メルク、コロナ経口治療薬のジェネリック製造拡大へ契約締結
当院で入手したのも、そうしたジェネリック製品のうちの一つです。
かなり安く手に入るので、これが「問題なく」使えるのであればFIP治療にかかる費用に革命が起きる可能性があります。
しかし、期待させておいて申し訳ありませんが、
当院ではFIPの猫ちゃんに「第一選択で」モルヌピラビルを処方するつもりは「今のところ」ありません。
1つ目の理由として、まだ猫に対する使用の安全性が確認されているとは言い難いからです。
人間の新型コロナに対してとにかく早く使える経口薬(飲み薬)が待望されていたために、モルヌピラビルはいち早く緊急使用を承認、わが国でも特例承認されたわけですが、最後の最後までその安全性を危惧されて(有効性もイマイチである可能性が判明して)、スムーズとは言えない承認であったことは記憶に新しいです。
そして、種々のコロナ治療薬が出揃った今でもモルヌピラビルは不人気なようです。
その一番の理由は安全性への不安であると言われています。
☞コロナ飲み薬モルヌピラビル、米国では「最後の選択肢」
人間のお医者さんでさえ使いたがらないお薬ですから(日本ではそこそこ使われているみたいですが)、猫に使うのもどうなのか、という話です。
FIP治療の権威であるPedersen先生(GS治療を編み出した先生です)も早くからモルヌピラビルには注目していて、安全性や有効性に関する実験結果を発表しています。
(画像は各化合物の抗FIPウイルス活性を示したグラフ:A rational approach to identifying effective combined anticoronaviral therapies against feline coronavirusより引用)
その中でPedersen先生は、細胞培養においてEIDD-2801(モルヌピラビル)はGS-441524よりも高い毒性を示すことを2020年の時点で既に見出しており、GS-441524は400µMまでの濃度で細胞毒性が全くなかったのに対し、EIDD-2801は100μMで明らかな細胞毒性を示したとして、RNAに致命的な変異を与える可能性を指摘しています。
GS治療でも軽度にみられることがある腎障害や肝障害がモルヌピラビルではさらに顕著に発現する可能性も考えられます(でもそこはそんなに心配ないのではないかと個人的には考えています)し、それ以上に問題になるのはこの薬剤の強力な変異原性に起因する「催奇形性」や「発がん性」と言えるでしょう。これはモルヌピラビルの人間用の承認過程がスムーズに進まなかった最大の要因であるとされています。
FDA諮問委員会において緊急使用に対する賛成が13票、反対が10票だったということで、アメリカではギリギリ承認された印象です。
しかも人間の新型コロナ治療にモルヌピラビルが使用される場合の治療期間は原則5日間ですが、猫のGS-441524によるFIPの推奨治療期間は12週間とかなり長く、モルヌピラビルも長期に使用すると仮定した場合(根拠は知りませんが、実験的投与の段階では35-70日間のプロトコールが用いられたようです)、そのぶん毒性を発揮する可能性が高まる懸念があります。
(それを言ったらGS-441524も長期的な副作用には同様に注意を払う必要があるかもしれませんが・・・)
ごく簡潔に言えば「FIPは治ったけど若くしてがんになってしまった」という猫ちゃんが増えるかも、という話です。そしてそれは投薬終了後ある程度の年月が経ってみないと答えがわかりません。
その辺りについて人間と猫でのデータがある程度出揃うまでは我慢です。ただしそれを待っていたらまた長い歳月がかかるだろうと思いますが・・・
そして今でも猫にとっての最善の方法としては、これまで(特許を無視して)数多くの使用経験が蓄積された結果、より安全性が確認されているGS-441524を選択するべきだということになるでしょう。
じゃあ、なんでそんなモルヌピラビルを病院に置いとくのかと言うと、
実はモルヌピラビルはGS-441524での治療に耐性を生じた猫に対する、とっておきの次の一手として期待されているからです。
これが当院でモルヌピラビルをFIP治療の第一選択として使用しない2つめの大きな理由です。
モルヌピラビルは、人間だけでなく、猫でも現状では「最後の選択肢」であるべきだと個人的には考えています。
これはFIP治療の権威であるPedersen先生をはじめ、たぶんFIP治療医の間では共通認識となっています。
というわけで、モルヌピラビルを乱用して、モルヌピラビルにまで耐性を持つウイルスが増えてしまう状況になってしまうと本当に困ります。
(安いので乱用する獣医師が出現しないとも限らないと危惧しています)
薬剤耐性の問題だけではなく、FIPからさらに変異して最強最恐のスーパーFIPみたいなウイルスが生まれてしまう可能性もゼロではないのかなと。
さらに言えば、今回のCOVID-19騒動で再認識されたワンヘルス(人と動物の健康と環境の健全性はひとつながりである)の重要性が叫ばれる昨今、猫だけでなく人間への感染性を獲得してしまったりする最悪の可能性(詳しくないので本当にそんな可能性があるのかどうかはわかりません)まで頭の隅に置いておかないといけないのかもしれません。
なんと言っても安いので、つい目の前の猫ちゃんのために使いたくなってしまいますが、
我々獣医師の立場で良識をもって未来のあらゆることまで考えたら、乱用は絶対に控えないといけない危険な可能性をはらんだ薬だと思います。
特にFIP治療に慣れていない獣医師が気安く手を出す薬ではないでしょう。
さて、そもそもモルヌピラビルのFIPへの応用の可能性には以前からPedersen先生も触れていましたが、その使用が現実味を帯びてきたのには、モルヌピラビルが人間用に承認されたことに加えて、もう一つ特殊な背景がありました。
モルヌピラビルの人間での承認に先立って、またしても中国で特許権を無視した海賊版が流通していたというのです。
こちらはGS-441524とは事情が違い、少し待てば承認されて堂々と正規品が使えるようになったであろうにもかかわらず、個人的にはあきれるばかりです。
さらに、猫に対して(人に対してでさえも)安全性や有効性に関するデータが乏しい段階で、先走って世界各地の実際のFIP症例286頭に実験的に投与させた結果がインターネット上で公開されました。
論文化されていないですし(特許を無視しているので大々的に公表しようがないとは思います)、真偽のほどは定かではないと捉えるべきでしょうけれど、本当だとすれば効果は期待できそうです(ていうか、理論的には効くはずです)。
そこでは短期的な安全性もさほど問題なさそうだとされています。
ただ、症例を積み重ねたら、全体としての有効成績がどうなるか、長期毒性を含めた安全性はどうなのか、まだまだ誰にもわかりません。
しかも、この中国の海賊版メーカーの初期の実験的使用では、かなり高用量のモルヌピラビルが投与されたようです。
Pedersen先生もこの無茶に先走った実験結果には注目していてコメントを出していますが、そこではこの用量は多すぎるとして、試験管内での培養実験結果を元に計算された投薬量と、人間での投薬量を猫に外挿することによる投薬量との2種類の代案を提唱しています。
そのコメントを受けて、海賊版による実験結果が公表されたサイトでも、初期の実験的投与量から少し減らした量を推奨するようになりました。
(おまけに「FIP治療には実績あるGS-441524を第一選択とし、モルヌピラビルを乱用すべきでない」とも明記されるようになりました)
ただし、Pedersen先生のこの「人間での投薬量に基づいた計算」というのがどうやら少し古い情報に基づいてしまっているようなので、私個人的にはこの用量だと少なすぎる可能性もあるかなと感じています。
似たような例として、GS-441524についても初期の論文の投与量だと再発が多かったり用量が不足している可能性が高いことがわかってくるにつれ、Pedersen先生のグループも今では当初の自らの論文よりももっと高用量を推奨しています。
それはMUTIANなどのグレーな使用経験に基づいて、実症例での安全性がある程度確認できたと考えたからに違いありません。
GSにしろモルヌにしろ、あくまで予備研究として「効きが弱い可能性はあるけど、安全性を重視して低用量から恐る恐る開始するべき」といったところでしょうか。
かと言って用量が少なすぎると十分な効果が得られないでしょうし、いたずらに治療期間が長引けばウイルス変異の可能性も増してしまいます。
なかなか未知の治療に対する薬用量の設定は難しそうです。
私を含め世界中のFIP治療医が最大の信頼を寄せているのはPedersen先生のグループからの情報です。
真偽のほども明らかでないどこの誰だかわからないインターネット上の情報を鵜呑みにすることには危険を感じます。
少なくとも現状でPedersen先生を差し置いて臨床例にモルヌピラビルを大々的に使っていくことは私にはできません。
ただ、GSのときもそうでしたが、Pedersen先生は、ある程度の情報提供をするだけして(何かあっても自分に責任が及ばないように?)、あとは中国の無茶な人たち(ある意味勇気ある人たち?)が大規模な動物実験的にFIPの臨床例に投与する結果を高みから見守っているような、そんなアプローチに見えなくもないです。
しかしそのおかげでGS-441524(またはMUTIAN)によるFIP治療がほぼ確立され、結果的には猫ちゃんの命を救っているのは間違いありません。
モルヌピラビルについても引き続きPedersen先生の発信を注視し、方向性がハッキリしてからそれに追従していこうと思います。
安価でかつ人間用に承認された薬剤でFIPを治療できるようになる可能性が出てきたこと自体はもちろん素晴らしいことだと思います。
Pedersen先生や私の不安が杞憂に終わり、これまで以上に多くの猫ちゃんが救われる日が来ることを祈りたいです。
あくまで個人的見解ですが、まとめとしては、
・モルヌピラビルの安全性の確認には実験的なデータの蓄積が必要
・今でもFIP治療の第一選択はGS-441524であるべき
・モルヌピラビルの使用はGS-441524に対する耐性が生じたFIP症例のみに限定すべき
です。
最後にPedersen先生のコメントを一部抜粋して終わりにしたいと思います。
「モルヌピラビルはFIPの治療においてGS-441524よりも安全かつ有効であるとは考えにくいが、GS-441524に対する耐性の予防(耐性機序の異なる抗ウイルス剤のカクテルとして)あるいはGS-441524で効果がなくなった猫の治療において特に有用であると思われる。モルヌピラビルは、活性物質のN4-ヒドロキシシチジンが極めて強力な変異原であるため、長期的に毒性がないかどうかはほとんど不明であり、FIP治療の期間はCOVID-19よりはるかに長いことからも、大きな副作用が出る可能性がある」
(DeepL翻訳を一部改変)
当院でのGS-441524によるFIP治療についてはコチラにて
☞MUTIAN協力病院ではないけれど関東(神奈川)でGS-441524によるFIP治療を実施した
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☞BOVA UKと比較してFIP治療薬GS-441524の原価を1/10~1/20まで削減できる試薬の個人輸入